死ぬまでオタク

(基本的に)テレビとアニメしか観ません

昭和期のヤクルトスワローズと『クソアニメ』

bakhtin19880823.hatenadiary.com


 前回のこの記事で、アニメ作品における「人気」と「実力」の話をした。「人気」すなわち売れ行き、「実力」すなわち品質(とくに映像作品としての質)だと言った。
 そして『日常』と『氷菓』を取り上げたのであるが、「人気」(売れ行き)と「実力」(品質)の問題については、抽象的で曖昧とした記述にとどまってしまった。
 

 人気=「売れ行き」とは何か、実力=「(映像作品としての)品質」とは何か、そういう定義付けを説明する責任を、ぼくは放棄したいと思う。よって無責任にアニメ作品における「人気」=「売れ行き」/「実力」=「品質」についてどんどん放言を書き連ねていきたい。

 


 村上春樹が、80年代のエッセイでヤクルトスワローズについて書いている。うろ覚えで内容を要約してみる。

 

SWALLOWS CREW名誉会員・村上春樹

 村上春樹は、早稲田大学に通うため上京したとき、どの球団を応援するか迷った。なぜなら当時はまだ在京の球団がかなり多かったからだ。
 春樹は、当時『サンケイアトムズ*1』と呼ばれてれいた現在の東京ヤクルトスワローズを応援することに決めた。これにはいろいろと事情があって、エッセイでも説明されているが、ここでは省略する。

 

うわっ、この球団……弱すぎ!?

 村上春樹神宮球場でガールフレンドとヤクルトの試合を観戦していたときのエピソードが面白い。
 

 当時ヤクルトスワローズはマジで弱かった。なんと1970年の勝率は.264。別所毅彦監督がシーズン途中で更迭されるのも残念ながら当然であろう。
 74年に奇跡的にAクラスになるも、広岡達朗が監督になるまで15年連続で勝率が5割未満だった。そもそも前身の国鉄スワローズが、金田正一の調子がチームの命運を握っているような状態の球団だった。で、カネやんは巨人に移籍するので、スワローズは泥沼の暗黒に陥ったのであった。
 そんな時期に村上春樹神宮球場で野球観戦デートをしていたのだから傑作である。「あなた、こんなチーム応援してるの?」と面と向かって言われたという。打撃も守備もボロボロで、とくに春樹は外野の芝生席から試合を観戦していたので、毎回のように外野手のエラーを眼の前で目撃していたらしい。

 

つかの間のオアシス

 しかしながら、1978年、広岡達朗のもとでついにヤクルトスワローズは初優勝・日本一を達成する。*2
 そして、春樹がヤクルトスワローズについてのエッセイを執筆したのは、初優勝後の時代であった。

 

武上/土橋/関根と共に苦難を乗り越えていけ

 1981年以降、10年連続Bクラスの泥沼。80年代のヤクルトは暗黒の中の暗黒だった。

 ノムさんが監督になって『ID野球』が流行語になったことを知らない世代が社会人になっている時代が来た。しかしぼくと同世代の人間でも、ノムさんの一つ前のヤクルトの監督が誰だったか知らないし、80年代を通じて暗黒だったことを知るよしもない。

 

こんなアニメ観てて何が悪い

 で、何が言いたいかというと、「あなた、こんなチーム応援してるの?」と村上春樹が彼女に言われたような状態のチーム、つまり「人気」(在京球団は巨人一人勝ち)も「実力」もなかった時代のヤクルトスワローズ広岡達朗政権を除外すれば底辺球団だった昭和期のヤクルトスワローズに、「人気」=「売れ行き」も「実力」=「品質」も低調ないわゆる世間一般で『クソアニメ』と呼ばれているような泡沫底辺深夜アニメに通じるものを感じ、そんな底辺球団を応援し続けてきた村上春樹という男に、世間一般で『クソアニメ』と言われていようが、そういった作品を世間の酷評に構わず楽しみ続けるアニメファンに通じるものを感じるのである。

 たとえ「お前、こんな(クソ)アニメ観てるのかよ?」と言われたとしても、絶対に投げ出さないアニメファンの鑑……。

*1:公式サイトを閲覧したら、1969年からの球団名の変遷についての記述が事実と異なっていたので、丸ごと削除。記憶力どころかWikipediaの読解力も衰えていた。

*2:ちなみにこの年の日本シリーズの最終戦で、阪急ブレーブス上田利治監督の審判に対する猛抗議により試合が1時間以上中断したというエピソードは、野球ファンには有名である。