死ぬまでオタク

(基本的に)テレビとアニメしか観ません

京都アニメーションに関する個人的な感情について

 僕と京アニの出会い。


 高校時代(2000年代中期)、ライトノベルフルメタル・パニック!』の短編のほうのアニメ化作品が評判になっていることを風の噂で聞いた。僕は『フルメタル・パニック!』の短編集を読むのが好きだったので、噂のアニメ作品『フルメタル・パニック? ふもっふ』のDVDを高校の近くのレンタルビデオ屋で借りた。当時僕はアニメからセミリタイヤ状態で、レンタルビデオソフトを借りる習慣はなかった(そのかわり昼飯代をケチってCDをがんがん借りていた)。当時の僕にDVDを借りさせるだけでも、京アニの魔力というのは恐ろしいものがある。


フルメタル・パニック? ふもっふ』のDVD第1巻を借りたとき、『涼宮ハルヒの憂鬱』が流行っていたかどうか定かではない。
フルメタル・パニック? ふもっふ』が京都アニメーションの実質的な処女作であることなど知る由もなかった。「京都アニメーション」という制作会社が存在していることを認知していたかどうかすら怪しかった。

 

 で、『フルメタル・パニック? ふもっふ』のDVD第1巻を観たんだが、はっきり言って少しも面白くなかった。原作を読めば十分。そもそも『フルメタル・パニック!』の短編は、「文学」という制約が産んだ文章表現としての面白さに立脚しているのであり、文字で読んでこそ笑えるものを、原作に忠誠を誓い、原作に忠実に映像化したところで、何の面白みもなく笑えない。

 

技術で殴ってくる京都アニメーション

CLANNAD アフターストーリー』辺りまでの京都アニメーションは、技術で殴ってくる会社だった。技術で殴ってくるということは、圧倒的な映像表現力を誇示することである。大上段に構えて、圧倒的な映像美で攻撃してくる。そう、2000年代までの京アニは僕にとって「敵」だったのだ。『CLANNAD アフターストーリー』そっちのけで、PAWORKSの処女作『true tears』を、画面にしがみつくように観ていた二十歳の冬――。

 

『日常』そして『氷菓

 2011年4月、『日常』放映開始。当初の売れ行きが芳しくなく、京アニの「落日」がささやかれた。しかし2012年1月に公共放送のNHK(Eテレ)で放映されることが発表され、アニメファンに衝撃を与えた。


 表現形式こそ違えど同じ角川作品であった小説『古典部シリーズ』を、『氷菓』というタイトルで、Eテレ版『日常』の放映終了直後に放映開始。『日常』より売れ行きは芳しく、人気(売れ行き)・実力(品質)両面を兼ね備えたテレビアニメで、『氷菓』により、1年前の『日常』開始当時一瞬は「落日」とか囁かれていた京アニは持ち直す。

 

宿敵 『響け! ユーフォニアム

 ところで『響け! ユーフォニアム』がNHKのBS放送で放映されることが確定したらしい。

 『響け! ユーフォニアム』の第2期が放映開始されたとき(2016年10月)、僕は非常に「危機感」を持った。この「危機感」は僕独自の感情であり、巷の『ユーフォニアム』及び京都アニメーションに対する一般的感情とは真反対のものだ。


 ではその「危機感」とは一体何だったのか? 


 それは、2008年10月に『CLANNAD アフターストーリー』が始まったとき感じた「危機感」と、ほぼ似通ったものだ。
 

 あの頃の京都アニメーション及び京都アニメーションが作るKeyブランド原作アニメへの崇拝は異常ともいえるものがあった。筋金入りのKeyアンチはいただろうし、筋金入りの京アニ否定派(または京アニ作品を過大評価だと思う人々)は確かにいた。しかしながら、現在、反・京都アニメーション勢力は、ほとんど根絶やしにされているように思う。かつてのアンチ京アニは、回心または改心するか、アニメ自体を観なくなったのだと思う。

 

 『ユーフォニアム』2期開始当時の「危機感」が、『CLANNAD アフターストーリー』開始当時の「危機感」と似通ったものであるという話だった。それでは、具体的にその感情とはどういうものなのか。


 ↑に、「『CLANNAD アフターストーリー』辺りまでの京都アニメーションは、技術で殴ってくる会社だった」と書いた。「技術で殴ってくるということは、圧倒的な映像表現力を誇示することである。大上段に構えて、圧倒的な映像美で攻撃してくる」とも書いた。『響け! ユーフォニアム』というアニメ作品は、まさに「技術で殴ってくる」「圧倒的映像美で攻撃してくる」京アニ作品のリバイバルだった。つまり、『ユーフォニアム』は、僕にとって宿敵のようなアニメ作品だったのだ。

 

僕は『日常』が好きだ

 僕は、『日常』から『甘城ブリリアントパーク』までの時期の京アニ作品に好意を持っている。つまり2010年代前半の『けいおん!』関連作品を除いた作品である。ただし、『たまこラブストーリー』は除外させて欲しい。ただ単に観ていないという理由だけだ。もっとも、未鑑賞という理由以外に、なにかイデオロギー的な理由が無意識の裡にあるような気がしてならない。それは『たまこラブストーリー』に対する僕自身の生理的なジレンマと対応してくる。

 
 それはいいとして、僕が断然京都アニメーション作品の中で好きだったのが『日常』だ。さきほど、『氷菓』が、「人気(売れ行き)・実力(品質)両面を兼ね備えたテレビアニメで」ある、と書いた。しかしながら、僕は『氷菓』放映以前に、『古典部シリーズ』の既刊を全部読んでいた。だから『氷菓』というアニメに正当な評価を下せなかった。原作を知っているがゆえに。


 人気(売れ行き)・実力(品質)両面を兼ね備えたテレビアニメは珍しい。放映当初の『日常』は、たしかに人気(売れ行き)の面では『氷菓』に劣っていた。でも、実力(品質)は、『日常』のほうが『氷菓』より断然上。というのは、完全に僕の主観であり、「ありえないよ」「『氷菓』のほうが作画はいい」という声なき声がただちに聴こえてくる。「『氷菓』のほうが品質的(ここでいう「品質」とは、ほぼ映像作品としての質のことだ)にも上」という意見を、尊重しないのではない。もうこれは完全に「嗜好」の問題であり、爆発的でアヴァンギャルドな映像を観たかったら『日常』を観ろ、テクニカルで繊細に美しい映像を観たかったら『氷菓』を観ろ、というふうな言いように帰着するのだと思う。

 

氷菓』と違って原作に無知であり、爆発的でアヴァンギャルドな映像のほうが好きだったので、『日常』を上にとっているだけのことだ。